20代の前半を過ぎたころから
「自分が生まれてきたことには絶対に意味があるはずだ」
と強く強く思っていました。
生まれてきたことに意味がなければ、
『なぜ今自分が生きているのか』
『どうしてこのような家庭環境なのか』
『どうして自分は人と違うのか』
そういったことを誰も私に説明できないし、
答えをもらうこともできませんでした。
禅問答のようにその問いが
自分の中をぐるぐるとまわっていたのです。
なぜ自分はこんなに生きづらいのだろうか?と。
今思えば、その時の自分にとって生きるということは
ただただつらく苦しいことのように思えていたのでした。
自分の抱えている疑問の答えを知りたいがために
時にはがむしゃらに生活し、本を読み、模索し、時にはわかったふりをして
生きてきました。
20代後半になって、
「生まれたことには意味がある」という一文を
SHAS(School of Healing Arts and Science)のHPで
みつけたことで、何もわからないまま、わらにもすがる思いで入学したのでした。
(今はもう書いてないです。いやそのときも書いてあったかどうか今では
わかりませんが、、、)
最初の頃は先生が私の生きづらさを
原因→結果(あなたはこうだからこんな風に生きづらいのよ)
というように、教えてくれるのだと思いました。
さらに、先生はすごい人みたいだし、色々なことが分かるみたいなので
先生が私が生まれてきた意味を教えてくれるのだと思っていました。
ところが、それはとんでもない間違いだということに
気が付くまで何年かかかりました(笑)
あるアフリカの部族では、女性が妊娠するとコミュニティーで
その子はなぜこのタイミングで、この部族に、自分たちの
もとに生まれてくるのか、シャーマンの儀式で知るのだそうです。
その儀式で生まれてくる子どもの目的を知り
コミュニティーが共有することで、その子どもが
人生を生きるうえで、その目的を見失わないように見守って
いくのだそうです。
その子の目的を知ることはその子どもが自分らしく生きること。
それはコミュニティにとってもプラスになることだから共有し
見守っていくのだそうです。
そんなアフリカの話や私が20代後半からいろんなことを
取り組んできて思うことは
「生まれてきたことにはどうも意味があるな」
ということと、
「生まれてきた目的ってのがあるようだ」
とうすうす(?!)感じ始めているということです。
自分が生きていくことの意味や、自分らしく生きていくこと、
自分らしさって何かを知りたいとき、少し遠回りに感じるかも
しれませんが
自分が感じている不快感、生き辛さが
・なぜなのか考えてみる、
・どんな風に感じているのか客観的に知っていくこと
が助けになると思います。
まずは、「生きづらさ」があることを知ることが第一歩。
それに気がついたら、考えたり解明する努力をしていく。
なぜなら、生きづらさや不快感のようなものは
自分の本来の目的とはずれてしまっているという1つの
サインでもあるのです。
自分の生きづらさは、自分が一番よくわっています。
ですから、自分で知っていくしかないのです。
だれかが教えてもくれません。
原因と結果に基づく方程式もありません。
そのずれを見ていくと、本来の姿も見えてくる。
そのように考えることが「自分を知ること」につながります。
自分を知っていくことは、前に進むことにもつながります。
次回は自分を知ることについて、もう少し書きたいと思います。